ノート

家族との生活のこと

星々の子ら

自閉スペクトラム障害の子を中国の言葉では「星の子」というらしい。

すこしネットで調べてみたけれども、ほんとうなのか、まちがいなのか、よくわからなかった。中国語の「星」にどのような意味があるのか、「星の子」という言葉がどのようなニュアンスを含むのか、良い意味なのか、悪い意味なのかもわからなかった。

わからなかったけれども、べつにかまわない。

なぜなら、「どこかの遠い国では、この子らを「星の子」と呼ぶのだ」と自分で思っておくぶんには、なにもまちがいは起こらないからだ。

「宇宙空間を漂うような寂しさと美しさ」

竹中均『精神分析自閉症』から

〈冬の夕暮れ、がらんとした公園の片隅で私たちの子は一人で遊んでいる。砂を手にすくってパラパラと側溝の網から落とし続ける。暗い水面に砂が舞い降りるかすかな音。今度は短い冬草をむしって、砂の後を追うように、はらはらと散らせて。さっきまで野球をしていた子どもたちは帰ってしまったのに、彼だけはいつまでも帰ろうとしない。私は傍らで待ち続け、風は冷たく、陽は次第に陰ってゆく。〉

これは、自閉症のある子を持つ私にとってごく普通の情景である。そこには、宇宙空間を漂うような寂しさと美しさがある

書くこと

愛する人が、根本のところではこの世界に受け入れてもらえない存在だと知った時から、常に心の底にあり、けして無くなることがないであろう感情、いったい、それについて書くことができるだろうか。それは、そもそも書くことができない性質のものだとさえ思える。

あるいは、書くことができるものだとしても、書かれたものは散文ではなく韻文であろう、文学であろうと思う。ぼくにそのようなものを書く能力はない。

そもそも書けないものなのか、書けるものだけれども、ぼくにその能力がないのか、いずれにせよ、その愛する人を受容しようとしないこの世界において、それについて書き記すことは、ある種の利敵行為・裏切り行為であり、してはならないことであるように思われる。

では、療育とか、発達検査とか、ABA・TEACCH・絵カードについて勉強して、書けば良いのだろうか。

けれども、ぼくがほんとうに書きたいのはそんなことではない。

だから、ぼくは、ほんとうに書きたい書けないことのまわりを彫るようにして、書きたくはないことを書くことしかできないのだと思った。

これから何か書くことがあるのかないのかわからないけれども、もしも書くのならば、書くことによって、何かが、少しでも、良くならなければならない。

出会い直し

オトナとはコドモを育てるヒトのことだと思う。ヒトにはオトナとコドモがあるけれども、コドモはコドモを育てない。コドモは自らの発達に集中している。自らの発達を止め、コドモの発達をたすけるのがオトナである。

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる(穂村弘

これは「生まれ直し」の歌であるという。

この歌をはじめてよんだとき、ぼくは30歳を過ぎていて、それでもコドモとして堂々といろいろなことをやり直したいと思っていたので、これは秀歌であると思った。

けれども、そんな生まれ直しは、現実にはできはしない幼稚なファンタジーなのだった。

その後、ぼくは結婚して、こどもがうまれて、オトナになった。

幾年か過ぎて、この歌に出会い直し、よみ直してみた。

そうしてみると、どうだろう。

オトナになったぼくが「呼吸する色の不思議」を見ているコドモに「これは火だね」と教えるとき、ぼくは、確かに、「火」と出会い直しをしているのだった。

世界を形作るあらゆるものを輝かしいものとして出会い直していこう(山田航「穂村弘百首鑑賞・63」(トナカイ語研究日誌))

「あなた」と出会ったことで新たな世界が立ち上げられアップデートされた。そこでまた新しい感覚や世界の構成物をひとつひとつ思い出していかなくてはならない。それは実はとてもきらきらとした貴重な時間なのではないか。「あなた」と出会ったことで世界を形作るあらゆるものを輝かしいものとして出会い直していこうとする。それは素晴らしい生のきらめきの肯定なのである。(穂村弘・山田航「世界中が夕焼け」